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放浪記・2

ある方のステキな評論を見つけたので共有。

ちなみに菊田一夫はこの「放浪記」の劇作家。

緑敏は木賃宿で知り合った画家。三人目の夫。

菊田は、「不幸で不遇」なままの芙美子像こそ、多くの観客に受け入れられる、と確信して、あの『放浪記』ラストシーンを書き上げたのだろう。
 林芙美子へ、周囲の人たちが感じた「羨望と憎しみ」を残してはならない。
 観客が、快く芙美子の生涯へ拍手を送って帰宅するには、芙美子が幸福に見えては「興ざめ」となることを菊田は知っていた。

 平凡な日常の疲れを癒しに劇場へやってきて、ささやかな慰安のとき非日常のひとときを過ごす観客に、「自分の人生への、疑問や否定」を残すことは商業演劇の仕事ではない。

 芙美子への「負の感想」を払拭するために、菊田は日夏京子にセリフを与える。「おふみ、あんた、ちっとも幸せじゃないのね」」
 徹夜続きの執筆に疲れ切り、暗い顔をして眠り込んでしまう芙美子の姿。余韻の中に観客は涙を浮かべ、懸命に生きたひとりの女性に拍手を送って家路につく。

 あらゆる手段で書くことを追求し、作家として成功した芙美子が主人公である一方、「作家としては成功せず、平凡な一生を生きた日夏京子」を脇役に据えることで、菊田の舞台『放浪記』は成立しているように思う。

 もし、本当に芙美子が、作家として家庭人として不幸な生活を送っていたのだったら、落合の家は「作家の棘」でささくれだっていただろう。
 芙美子は書くことで生きていた。書き続けることが芙美子にとっての幸せだった。
 特に敗戦後の6年間、芙美子はある覚悟を持って書き続けていた。家族もそれを理解していたから、芙美子が書くことによって生きていこうとするのを静かに見守っていたのだ。

 1951年に48歳で芙美子が亡くなったあと、緑敏は、落合の家をそっくりそのまま保存した。妻が設計に心をくだいて作り上げた姿のままに残したのだ。
 妻がいなくなった家。緑敏にとっては、なおいっそうのこと、間取りのひとつひとつ、家具調度のひとつひとつが亡き人の思い出となり、芙美子が使っていた机もペンも、芙美子の面影をだどるよすがとなっていたことだろう。

 8歳で養母芙美子と死に別れた養子の泰は、その後、交通事故により早世し、養母の元へいってしまった。
 「行商人の娘だった貧乏作家が、成り上がったあとは、息子を学習院に入学させるのか」という揶揄を受けたことを、泰自身は成長したあと、どう受け止めていたのだろうか。
 養母芙美子に死に別れ、自分自身も若くして亡くなる運命だったとは。

 緑敏は息子にも先立たれ、ひとり落合の家を守って暮した。
 1989年(平成1)に緑敏が亡くなるまで、落合の家は芙美子がいた当時のまま保たれた。エアコンをつけることさえせずに、緑敏は、芙美子の机、芙美子の書棚をそのまま保存した。

 1941年に建てられ戦火を免れた「落合の家」は、築50年を経て「昭和の民家」として貴重な文化財となった。
 緑敏亡きあと、遺族から新宿区へ寄贈され、林芙美子記念館として公開されている。(つづく)

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